渋谷 慶一郎さん 第1回:The Beginning

第1回:The Beginning

渋谷 慶一郎(しぶや・けいいちろう)

音楽家

1973年生まれ。東京芸術大学作曲科卒業。2002年に音楽レーベルATAKを設立。 以後、音楽レーベルとして国 内外の先鋭的な電子音響作品を数多くリリースする。 2015 年に入ってからの活躍は目ざましく、パリのパレ・ド・トーキョーでパリ・オペラ座のダンサーたちとのコラボレーションによる公演「THE WAY OF THE RABBIT」に唯一の音楽家として参加。7月にはソニークラシカルより「ATAK022 Live In Paris Keiichiro Shibuya」を発表。9月には完全アンプラグドのピアノソロ・コンサート「Playing Piano With No Speakers」を2日連続で開催、11月にはパリ・サブロンでのダンサー、コンテンポラリーアートとのコラボレーションによる公演も予定されている。 代表作に“ATAK000+”、“ATAK010 filmachine phonics”、ピアノソロ・アルバムとして“ATAK015 for maria”など。

自由な少年時代。思いもかけずに訪れた、将来の選択の時。

渋谷:母親がバイオリンを教えていたりしたので、生まれた時から音楽がある環境で育ちました。とはいえ、大学教授をしていた父親は演歌、特に美空ひばりが大好きだったりしたから、FMラジオからクラシックが流れることもあれば、テレビから美空ひばりや細川たかしが聞こえてくることもある。物心ついた頃には、僕は真ん中をとってサザンオールスターズとか聴くべきなのか?と思ったり(笑)、試行錯誤していました。

小さい頃、「将来、何になりたいの?」とよく聞かれますよね。僕は「何にもなりたくない」と幼稚園で応えてひどく怒られたりするような嫌な子供でした(笑)。何かになろうと思えばきっとなれるから、なりたいものが見えた時に決めればいいと思っていたんです。5歳からピアノを習い始めましたが、先生が綺麗で楽しいなといったくらいで、将来の職業にする意識はまったくありませんでした。

呑気な子供時代でしたが、転機は意外にも早く、中学時代に訪れました。父親から、癌を患っていることを告げられたのです。「俺は癌でもうすぐ死ぬから、お前は将来の職業を決めろ。そうでないと安心して死ねない」と言われました。それから、本屋に行ったり、美術館に行ったり、コンサートに行ったりして、一生懸命に自分が将来なりたいものを探しました。そうするなかで、音楽が一番面白いし難しいと思ったのです。昔から一番難しいと思うことをやりたがるところがあるんです。

音楽における“メンター”との出会い。古典を学び、未知なる世界を知る。

渋谷:現代音楽の作曲家を目指して東京藝術大学作曲科に入りましたが、入学して早々に、現代音楽は既に終わりの後で同時に創作で生活することの難しさを目の当たりにしました。どうすればいいかと思った時に、「これを応用すれば」と思える対象はミニマル・ミュージックくらいしかなかった。ミニマリズムは音楽にしろ美術にしろ20世紀を生き残った数少ない思想で、あとはフェミニズムくらいしか生き残らなかったんじゃないか?とか冗談でよく言っているのですが(笑)、ミニマリズムを音楽に応用したスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラス、マイケル・ナイマン、マイケル・トーク、あと広い意味ではモートン・フェルドマンなんかの影響を受けつつ、自分の音楽が作れないかと考えました。そんな時に、現代音楽家の高橋悠治さんに出会いました。

高橋悠治さんのコンサートを初めて観たのは中学生の時で、まるでステージの上で遊んでいるようで驚きました。しかも、それを外国人の観客も含め幅広い客層が見に来ていた。要するにずっと憧れの存在だったんです。その後、芸大に入って当時付き合ってた彼女の大学で彼のコンサートがあって、打ち上げに潜り込んで思い切って話しかけてみました。自分も音楽を作っているんです、いきなりですが一緒に演奏させてくださいとお願いしました。僕は手が早いんです(笑)。これだと思った人には、すぐにアプローチする。図々しいかもしれないけど、やりたいことはやりたいし、欲しいものは欲しいから早く手に入れたほうがいいから。

初対面の、しかもまだ学生だった僕に悠治さんも興味を持ってくれて、ピアノとコンピュータを1台ずつ使った即興のコンサートで共演させてもらったりしてました。彼は当時、雅楽や三味線などの日本の古典音楽の現代版のようなものを作っていて、僕も影響を受けて、大学の雅楽の副科授業をとって演奏を習ったりしながら雅楽の曲を書いてみたりしました。雅楽といっても悠治さんの場合は普通の五線譜では書かずに、演奏する手から考えるというところまで戻って作っていてそれが新鮮だった。楽譜よりもさらに抽象的な、思考ですらない演奏する手から音楽を考えるというのは伝統楽器で現代音楽を書く場合は理にかなっている。雅楽は、手の形で考える音楽なので、音程の組み合わせだけで考えると楽器の特徴や伝統から安易に離れてしまう。元々の楽譜も指使いを示す記号からできていたりする。

新しいものを作りたければ、絶対に過去を知る必要があります。なぜなら自分が「新しい!」と思うことも、すでにやられている可能性があるから。ただそれ以上に大事なのは、勉強して身につければそれを忘れる事ができることです。知らなければ忘れることもできない。自分の知識が自分から剥がれ落ちてゆくのが感じられると、ああもしかしたらこれは新しいことをやっているのかもしれないと思えます。忘れるというプロセスがクリエイティブなんです。

音楽とテクノロジーの揺籃期から、電子音楽の時代へ。

渋谷:大学時代、いわゆる電子音楽で使える基本のフォーマットは「MIDI」でした。MIDIは、コンピュータが司令塔となり複数の電子楽器を操作することができるのですけれど、ケーブルで繋がっているためほんの少し音が遅れます。僕はその「遅れ」が気になって、当時はあまり好きではありませんでした。あと、司令塔があってそれに追従する楽器があるという構図はさっき話した演奏する手から考える現代雅楽みたいなものとは対称的でなにか馴染みが悪かった。だから、学生時代は、ピアノを弾いたり、スコアで作曲したり、アンサンブルを指揮をしたりというのがメインで、あまり電子音楽の分野には足を踏み入れていませんでした。

コンピュータだけで作った音楽が今では当たり前のように存在しますが、当時はまだ人間の演奏の入ったものがほとんどでした。純粋なコンピュータ音楽ではカールハインツ・シュトックハウゼンの「Study」とか好きなものもいくつかあったけど、ほとんどは本当の意味で「習作」の域を超えてなかった。今聴くと面白いのですが、当時の電子音楽はまだテクノロジーとして中途半端な時期で、簡単に言うとMIDIでサンプラーを操作しても根本的に面白いものは出来ないだろうなと思っていました。テクノロジーとはいつか全面的に向き合うときがくると思いつつ、実際には保留にしていました。というか当時はアレンジャーやスタジオミュージシャンみたいな仕事が忙しくて徹底的にそれと向き合う余裕もなかったんです。

1996、97年になると、ラップトップ・コンピュータ一台で作ることのできる音楽が現れます。それは、アカデミックな電子音楽とは全く別のところから突如現れたという印象で、僕にはすごく新鮮でした。オヴァルやカールステン・ニコライ、ピタといった人たちの音楽はミニマルミュージックのマテリアリスティックな部分をさらに推し進めているような感じですごく新鮮だった。カールステンは日本に来日するようになった初期の頃に会いましたが、時間が空けばラップトップを開いてその辺に座って音楽を作っていました。今では普通の光景ですが、音楽をポータブルに作る時代の始まりでした。当時の僕の部屋にはグランドピアノにデスクトップのコンピュータ、サンプラー、シンセサイザーがありましたが、ラップトップ1つでできるというのが魅力的で、楽譜を書くのもピアノを弾くのもその後、しばらくやめてしまいました。これは自分にとっても音楽の歴史にとっても大きな転換期だ思ったんです。2000年に入った頃ですね。








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