渋谷 慶一郎さん 第3回:Doubts and Failure

第3回:Doubts and Failure

渋谷 慶一郎(しぶや・けいいちろう)

音楽家

1973年生まれ。東京芸術大学作曲科卒業。2002年に音楽レーベルATAKを設立。 以後、音楽レーベルとして国 内外の先鋭的な電子音響作品を数多くリリースする。 2015 年に入ってからの活躍は目ざましく、パリのパレ・ド・トーキョーでパリ・オペラ座のダンサーたちとのコラボレーションによる公演「THE WAY OF THE RABBIT」に唯一の音楽家として参加。7月にはソニークラシカルより「ATAK022 Live In Paris Keiichiro Shibuya」を発表。9月には完全アンプラグドのピアノソロ・コンサート「Playing Piano With No Speakers」を2日連続で開催、11月にはパリ・サブロンでのダンサー、コンテンポラリーアートとのコラボレーションによる公演も予定されている。 代表作に“ATAK000+”、“ATAK010 filmachine phonics”、ピアノソロ・アルバムとして“ATAK015 for maria”など。

“やりたいこと”のある難しさ。挫折の連続と乗り越え。

渋谷:やりたいことを自由にやれるというのはここ数年のことで、藝大時代からレーベルを立ち上げてしばらくは、生活するのに苦しい時期もたくさんありました。クリエーターにとって自分のやりたいことがはっきりしているというのは大変なんです。僕はいわゆる“職業音楽家”の作る音楽があまり好きではなくて、どうしてもそうなれないから挫折の連続でしたね。日本は職人的なあり方というか職業作家や職業作曲家的な美学が好まれます。でも、それはすごくドメスティックな価値観です。やりたいことや明確なコンセプトよりもとにかく黙って職能を磨くことに価値があり、その職能は受け手のためにあるという。そんなことが評価されるのは多分日本だけでしょう。僕はそれには馴染めませんでした。

難しい時期は何度もありましたが、いつもどうにか乗り越えてきました。例えばちょうど最近、10年近くかけて完売したのですが、『ATAK008』という2006年に発表したアルバムは、一番ノイジーで実験的だったので、発表当初はまったく売れませんでした。その頃はマリアと二人で“家内制レーベル”の状態でしたから、CDを売った収入は家計を助ける大事なものでした。彼女は僕よりも実験的な音楽が好きで詳しかったけど『この方向を続ければ面白いかもしれないけど、レーベルとしてはやって行けなくなるから方向は変えましょう』と言われ、さらにノイジーにという方向は継続ではなく転換しました(笑)。コンサートでベルリンに行く直前の時期でしたね。

「for maria」の発表後、コンピュータを離れピアノソロで活動しだした時も様々な反応がありました。『電子音楽のファンが離れるんじゃないか』とか、『実験的なものに戻った方がいい』とか。でも、あの時にピアノを弾いていなければ今の僕はありませんし、結果的に僕の音楽を聞いてくれる人も桁外れに増えました。人の意見なんて当てにならない、大事な局面では真剣に聞くべきではないと確信しました(笑)。当時は岬の突端に立っていたのに、マリアが死んで一人になったわけだから自分が生き残るには岬の周りに人を増やしていくか、もしくは岬の外の大勢の中に突っ込んでいくしかない。僕は両方がやりたかったんです。とはいえコンピュータからピアノへ活動の中心を移したのは自暴自棄になってやったわけではなかった。当時は自分自身の状況を冷静に見ている自分がいないと何も出来なかったし、その上での決断だったから成功したのだと思います。

あらたな作品の制作へ。オペラへの取り組み。

渋谷: ピアノに専念して2年ほど過ぎた時、「filmachine」を企画したYCAMのチーフキュレーターの阿部さんから、久々に何か一緒に作りませんか?という声掛けをいただきました。おそらく阿部さんはサウンド・インスタレーションを想定していたかと思いますが、インスタレーションは「filmachine」でやり尽くした感があったので、全く違うものを作りたいと思いました。ちょうど自分の代表作を作りたいと思っていた時期でもあったので、それは何になるのだろうかと考えたらオペラにたどり着いたんです。ただ、それは唐突な思いつきではなくて、6年前まさに「filmachine」を作ったときに、音楽だけではなく体験者の聴く場所も設定するし、環境のデザインもする、サウンド・インスタレーションはつまり現代のオペラのようだなと思ったんです。その気持ちを6年くらい引きずっていたので、今回は本当のオペラを作ったらいいんじゃないか?と思いついたんです。

このオペラのプロジェクトがちょうどピアノからコンピュータの世界に復帰し始めた時期でもあったのですが、コンピュータに戻ってみると、全く様子が異なっていて驚きました。以前は、コンピュータの中でノイズのサウンドデータを生成するのが最先端でしたが、戻ってきてみたらソフトウェアのシンセサイザーが物凄く進化していた。シンセサイザーだからほとんどのソフトはドレミがあって、そこにどれだけの配分でノイズを混ぜていくかという世界になっていた。ピアノでやっていたこととそれ以前にコンピュータでやっていたノイズをミックス出来ると思って大喜びした記憶があります。だから、一気にそこにのめり込んで作ったのが「THE END」です。

困難を極めた「THE END」の制作。成功を信じて。

「THE END」は、最初はモノオペラにする予定で、出演者は自分一人、ステージ上に自分の部屋があるという設定でした。自分の部屋のなかで僕がピアノを弾くとか、楽譜をしまうとか、歩き回るとかそういった行為の全てが演出されていて、ほとんど即興性はなく全てがフィックスされていて意味を持っているというような作品を考えていました。2011年の震災直後に行った「Massive Life Flow」という公開制作がヒントになったりもしたんですが、中学生時代に見た高橋悠治さんの「カフカ」シリーズも遠いリファレンスとしてありました。

初音ミクを起用することになったのは制作が始まってからの話です。部屋の中に亡霊が立ち現れるというアイデアが上がって、それなら人の声でなく初音ミクでやったほうが面白いということになったんです。じゃあ、その亡霊の映像をどうしようか?というときに当時A4Aという映像制作の会社を作った東市君と映像アーティストのYKBX君が大きく参加することになっていった。CGの映像を用いる比重が増えるごとに初音ミクと映像が作品の中で占める比重が飛躍的に増えていきました。そうしていく中で、当初の抽象度の高いモノオペラよりは、記号性に満ちたCGと初音ミクによる言わばマッチョな表現に接近した方が、ソフトシンセサイザーとの相性もいいなと思っていったんです。ソフトシンセサイザーは、ドミソといった単純な音に、どんどん音色的な情報量が付加できます。ドミソはある種の記号で、音楽の抽象度がなくなっていって表現がマッシヴになりやすいんです。

「THE END」の制作は、すごく大変でした。例えば松村禎三さんという現代音楽家が遠藤周作さんの「沈黙」をオペラにしたときは作曲に12年かけたという話を学生の頃に聞いていたから、どうしよう?と思いました。12年は長いとしてもオペラを作るには短くても3、4年はかかるんです。「THE END」は1年もありませんでしたから、あり得ないんですけど全てが同時進行でした。そのため制作中はスタッフとの軋轢も生じました。例えば、クライマックス前のシーンを作るのに、まず脚本家にセリフを書いてもらって、尺を9分に決めたとします。それにあわせて、音楽も映像も同時進行で制作を進めるのですが、音楽を作っていると9分なんてあっという間なので、大きなクライマックスを作ろうとするとその時間をオーバーしてしまう。時間が延びると映像もその分伸ばさなければならなくなり、そうすると制作費がどんどん上がってゆく。実際に9分のクライマックスが16分になると数百万違ってくる。プロジェクト自体が暴走機関車みたいに暴れていきました。僕自身、それを煽っていたところもあったかもしれない。そうしないと作れないものがあったと思うし実際そういうものになった。

ただ、このプロジェクトは絶対に成功させる、日本だけではなく国外でも成功させるという強い意志を持ってやっていました。8ヶ月くらいほとんど眠る時間もないくらい集中して制作していたのですが、家でシャワーだけ浴びて事務所で作業して、事務所のソファで寝る時に、絶対にこれはパリでやるんだ、ヨーロッパでやるとつぶやきながら時間が過ぎていきました。

第4回につづく